キスより先に

家以外で酒を飲むことはあまりない。
あったとしてもそれは出先で仲間たちと会ったときぐらいで、一人で飲むなんてことはほとんどなかった。
しかしクラウドは今、適当に立ち寄った店で一人アルコールを呷っている。
照明を絞った薄暗い店内。
煩すぎるでも静かすぎるでもない適度なざわめきの中、クラウドは二杯目の酒を半分ほどにしたところで、この店に入ってから何度目かのため息をそっと吐いた。
今夜は家にマリンがいない。
ひさしぶりに休暇の取れたバレットがゴールドソーサーへと遊びに連れて行っているのだ。そして今日はそのまま、親子水入らずの時をホテルで過ごすのだと言う。
おそらく自分たちへの気遣いもあったのだろう。
「たまには二人でのんびりしろや」とバレットは言った。
そのあとに余計な一言も付け足して。
―― ほどほどにな、と。
ニヤリと下世話に笑ったバレットの顔を思い出して、クラウドはまたも深いため息を落とした。
ほどほどにも何も、自分とティファの間にはバレットが気を遣うようなそういった行為は未だない。
一緒に暮らし始めて数ヶ月、キス以上のことは何もしていないのだ。
それが世間で云うところの早いとか遅いとかクラウドにはわからない。
けれど、以前ユフィだったかバレットだかに言われた「ティファは恋愛に関して奥手だ」ということは身を持って知り得た。とりわけ、性に関する男の心理については認識がかなり甘いということも。
キスより先にそういった行為があることを知らない訳ではないのだろうが、男の自分がそれを強く望んでいることをティファはたぶん分かっていない。
もし分かっていたのなら、夜の深い時間に男の部屋に来て、ベッドに腰掛けながら「話をしよ?」などと無防備な行動をするはずがないのだから。
互いに仕事をしている今、そうした時間が夜しかないのだからそれは仕方がないことだし、そうするティファを責めるつもりもない。けれど、今の自分がそんな時間帯に彼女と一緒にいれば、話をするだけではすまなくなるのだ。
愛おしく思えば思うほど、抱きしめてキスをしたくなる。
そうすれば、それだけでは足りないと思うのが男の自分であり、それだけでも満ち足りた気持ちになれるのが女のティファなのだ。

長年の想いは通じ、彼女の気持ちは今たしかに自分にあると確信もできる。
今までを思えば、夢でもみているかのようなこの現実に十分すぎるくらいの幸せも感じている。
それなのに、自分は貪欲なまでにティファのすべてが欲しいと思っているのだ。
身体を重ねればすべてなのかと問われれば、そうじゃないと言い切れる。
けれど、これはもう理屈じゃなくて男の本能なのだ。
心も身体もすべてが自分のものだと満たさずにはいられない。
男が持つ独占的な欲求なのだ。
そうした思いは日増しに強くなっていく。
しかし彼女のほうは今のキス止まりの現状に満足している様子だ。
そんなティファを見るたび、自分ひとりだけが苦悶や焦燥感に苛まれているのを強く感じる。
そして、そうした思いは時に自分自身も身震いしてしまうほどの浅ましい考えを起こさせてしまうのだ。
―― 無理やりにでも抱いてしまおうか、と。
ティファを怖がらせたり傷つけたりするような真似だけは絶対にしたくないと考えるのに、その一方では乱暴的なまでの支配欲が自身を襲う。
もはや自分が想像する以上に限界まできているのではないかと思う。
だからそんな状態でマリンがいない今夜、自制心をどこまで保てるのかはっきり言って自信がなかった。
ティファと二人っきりの時間が長ければ長いほど、彼女を抱くことばかり考えてしまうだろう。
マリンがいないことで理性のたがが外れ、ティファの気持ちを無視してでも自分の欲求につき従うかもしれない。
ティファが嫌がろうが、泣き叫ぼうが、力ずくで……

グラスの中の氷がカランと大きく揺れた。
その音でクラウドはハッと顔を上げる。
今まさに我を取り戻したようなそんな顔。
そうしたクラウドの耳に周囲の喧騒がゆっくりと戻りはじめ、まだ少しの虚ろさを残した瞳で知らずのうちに強く握りしめていたグラスを見つめる。
不意にクラウドは、いま自分がこのような場所で時間を潰していることに情けなさを覚えた。
ため息ひとつ吐いてちらりと店の時計に目をやると、時の針はまだ彼女が起きていそうな時間帯を示していた。
さらなるため息と共にクラウドは空になったグラスを店の者に差し出して、三杯目の酒をオーダーした。





マリンがいないだけで部屋の中がずいぶんと広く感じた。
無邪気な笑い声が聞こえない部屋にひとり、自分のため息だけがやけに響く。
クラウドから帰宅が遅くなることの連絡を受けてから、ティファはずっとこんな調子で顔を曇らせていた。

ここ最近、クラウドの遅い帰宅が続いている。
仕事なのだからと頭ではわかっていても、それでもやっぱり寂しいと思う気持ちのほうが勝ってしまいティファの気分は沈んだ。
そして今日は特にマリンがいないことでその孤独感がより一層強まっていた。
そうした孤独感は時にクラウドに対しての不満に変わる。
―― 私といるよりも仕事のほうが大事?
俗に言われる、男の人が嫌うくだらない質問をしてしまいそうになるのだ。
もちろんそんなことは口にしない。でもだからといってもっと一緒にいたいなどとも言えなかった。
もしそんなことを言ってしまったら、彼はきっと困った顔をするだろう。
自分の気持ちが彼の重荷になる。
クラウドはやさしいから、重荷と思えるそれでもなんとかしようとするだろう。
そしてそれが出来ないとひとりで悩み、抱え込んでしまう人だ。
―― 面倒くさい女
クラウドからそう思われるのがいちばん怖かった。
だからクラウドから電話で遅くなることの連絡を受けても、不満のひとつもこぼさない物分かりのいい女を努めた。
けれど、今日はそれがうまく出来なかったかもしれない。
ここ最近の度重なるその報告に、また今日も? と思う気持ちが声に表れていたと思う。
携帯越しに聞こえたクラウドの申し訳なさそうな声がいつまでも耳に残っていた。

ティファは軽く頭を振って席を立つ。
何もしないでいるこんな時間は、ぐるぐるといらないことまで考えさせる。
出口が見えなくなるネガティブな思考の深みに嵌る前に熱いシャワーを浴びて早く寝てしまおうと思った。
先に休んでてかまわないと言ったクラウドを起きて待っているような真似をしたら、それこそ重い女だと負担に思われる。
バスルームへ向かう最中、ティファは自嘲した。
考えるのを止めようと決めたそばからこれだったからだ。


お気に入りの入浴剤を入れた湯船は、身体だけでなくガチガチな考え方をする思考もやわらかく癒してくれた。
湯あたりしそうなほどたっぷりと時間をかけて浸かっていたため、脱衣場の鏡に映ったティファの顔は赤く火照っている。
化粧水を手にとり、火照りを静めるように肌にゆっくりと馴染ませる。

最近、キスしてないな……
鏡に映る自分と向き合いながら、ティファはふとそんなことを考えた。
直後、湯あたりの火照りとは違った熱がティファの顔を再び赤く火照らせる。
近頃は気がつくとそんなことばかり考えていた。
少し前の自分なら彼のそばにいるだけで幸せな気持ちで満たされていたのに、今では抱きしめられたりキスをするとそれだけでは少し物足りなさを感じてしまうのだ。
クラウドの身体が自分から離れてしまうと寂しさを覚える。
そしてそうした夜は決まって抱きしめられた時のクラウドの逞しい胸や腕を思い出して、ぼーっとしている自分がいるのだ。
ティファにはそれがとてもはしたないことのように思えた。
クラウドが遅くまで働いていることを考えると、ことさらそんな自分を卑しく思った。
恥ずかしいと思うそれを戒めるように、ティファは化粧水を馴染ませた頬を両の手でペチペチと叩く。
―― もう寝よう
これ以上起きていてもロクなことしか考えない。
そう思って脱衣場の扉に手をかけた時、カチャリとその扉がむこう側から開かれた。





脱衣場の扉を開けた途端、バスルームからの蒸気と石鹸の香り。
クラウドはそれらに一瞬立ち怯んだあと、すでに休んでいるものだと思っていたティファを目にして息をのんだ。
「ご、ごめんっ」
慌てて謝ったのは、ここが風呂場の脱衣場であったから。
幸いにもティファはきちんとパジャマを着ていたけれど、こんな時間のこのような場所。どんな姿をしていてもおかしくない状況にクラウドは動揺を隠しきれなかった。
そうしたクラウドを前にして、ティファはふわっと笑って気にしてないとばかりに首を横に振る。
「お疲れさま、クラウド」
そんな労いの言葉と笑顔は今まで酒を飲んで時間を潰していたクラウドには心痛かった。
そしてそう思う気持ちが僅かに目を泳がせる。
「た、ただいま……」
ティファは眉根を寄せた。
クラウドのした些細な行為を見逃してはいなかったのだ。
にわか漂う不穏な空気にクラウドは焦って言葉を繋いだ。
「こ、こんな時間まで起きてたのか?」
「……うん。あっ、ううん、もう寝ようとしたところ」
「そう…か…」
努めて明るく振る舞うも、自分たちの会話は明らかにぎこちない。
自身のやましい気持ちがそうさせているのだとクラウドは思った。
会話はそこで途絶え、続かない言葉にティファは俯いた。
下唇を軽く噛みしめ、もたない間を埋めるような言葉を探している。
そんなふうに所在無さげにする彼女の姿は痛々しく、かわいそうに思うくらいだった。
もちろん、そうさせているのは自分であってそれに対して罪悪感もある。
それなのに、そう思う一方でクラウドはそんな感情とは対照的な不謹慎で淫らな視線をティファに注いでいた。
髪を結い上げ、普段晒すことのない白い首筋が湯上がりでほんのりと桜色に色づいている。その艶っぽい姿からクラウドは目が離せないでいた。
加えて、ティファから香る清潔感溢れる石鹸の香り。
視覚、嗅覚共々クラウドを否が応にも刺激する。
このままこの場にいたらマズいとクラウドの理性は警鐘を鳴らした。けれど、本能に従う目はティファを絡めとって離さず、足は根が生えたように動かない。
薄手のパジャマはティファの豊かな胸を強調し、襟元の開いたそこからちらりと見えるやわらかそうな白い胸元にクラウドの心臓は激しく脈打ちはじめた。
苦しさばかりが増すそこから無理やり目を剥がし、密やかに熱い吐息を漏らす。
しかしそうやって視線を逸らしたにも関わらず、脳裏に浮かぶのは今し方のティファの姿ばかりだ。
張りついて剥がれないそれに居たたまれなくなって、クラウドがきつく目を瞑ったその時、
「クラウド?」
心配そうに名を呼ばれたのと同時にクラウドはティファに腕を掴まれた。
ほんの少しの刺激でも過剰に反応してしまう今のクラウドの身体は情けないほどにビクッと震えた。
それに驚き、戸惑いをみせるティファを気遣うことよりも、クラウドの意識はやわらかく温かい彼女の手肌に集中し、鼓動は欲望を煽りたてるかのように早鐘を打った。
―― やめろ! 彼女には触れるな
僅かな理性はそう叫んだ。
しかしそれよりも先にクラウドの腕はティファへと伸び、彼女の腕を掴んでその身体ごと自身の胸に引き寄せていた。
突然のそうした行為にティファの口から小さな悲鳴が零れた。
そんな声は聞きたくないと、クラウドはいつにない乱暴なキスでそれをすくい取る。
そうされて言葉を奪われたティファはいやいやと頭を振った。
そんなふうに抗われることもイヤだと、クラウドはティファを強引に壁に押し付け、髪に両手を差し入れてその動きを封じる。
壁に擦れて結った髪がパラパラと解かれ、そこから香るシャンプーの匂いが甘やかな刺激剤となり、クラウドはそれに狂わされたただの雄となって夢中でティファの唇を貪った。

こんなやり方のキスをした後悔が津波のように押し寄せたのは、呼吸が続かなくなって唇を離した後だった。
激しい自己嫌悪に苛まれながらも、ティファが逃げていくかもしれない恐怖感で彼女の身体を離すことがことができない。
どれくらいそうしていたのか。
「クラウド……痛いよ」
ティファの弱々しい声が耳に触れ、クラウドは自分が彼女を力任せに抱きしめていたことに気づいて慌ててその細い身体を解放した。
「……ごめん」
返事の代わりに小さく首を横に振ったティファは乱れた髪をそっと整え、よれたパジャマを控えめに直す。
そうするしぐさから自分が起こした荒々しい行為がまざまざと見えて、クラウドはそれ以上なにも言えなくなった。
そうした耐え難い沈黙の中、ティファがゆっくりと口を開いた。
「クラウド疲れてるんだよ。……うん、きっとそう。だから、ね、熱いシャワーでも浴びて早く休んで」
そう言ったティファの気配が脱衣場からなくなって、クラウドの張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れた。
壁に背をつき、ずるずるとその場にしゃがみ込み、重いため息を吐く。
気が狂いそうなほどの想いは、自分の意思ばかりではどうにもならない強張りで痛いくらいに主張していた。
―― 疲れているんだよ
乱暴なキスをした自分も、された彼女自身も傷つかなくてすむような無難な言葉。
不意に自分の不甲斐なさだとか切なさなどのいろいろな感情が込み上げて胸が苦しくなった。
本能と理性の葛藤。
負けた理性に本能のまま動けば、必ずついて回る自己嫌悪。
冷静さを欠いた頭。
熱が蓄積する身体。
「……冷水のほうがいいかもな」
クラウドは呟き、自嘲した。





―― クラウド疲れてるんだよ
部屋に戻り、ついさっき言った自分の言葉にティファはきゅっと唇を噛みしめた。
クラウドからの突然の抱擁といつもと違う乱暴な口づけ。
そのどれもがティファを驚かせたし、少なからずのショックも受けた。
けれどそれらよりも、ティファはクラウドからアルコールの匂いがしたことにショックを隠しきれないでいた。
飲んできたから遅くなったの?
仕事じゃなかったの?
そうした疑念の影は得体の知れない不安をも誘引し、ティファの思考はあっという間にそれらに捕らわれた。
仕事の後に酒を飲むことをどうこう思っている訳ではない。
ただどうしてそれがうちではなく、違う店でだったのかということにティファの胸は騒いだ。
仮にもうちはアルコールを扱う店を構えている。普通の家と比べてアルコールに不自由している訳じゃない。それなのに、クラウドはわざわざ外で飲んで帰ってきたのだ。
仕事の付き合いで誰かに誘われて飲んでいただけかもしれない。
そんなふうにも考えてみた。
けれど、そんな考えはすぐに頭の中でかき消された。
隠す必要のないそれならクラウドはきっと電話でそう言うと思ったからだ。
そう考えると、言えなかった理由はもうただひとつしかないように思えた。
クラウドはひとりで飲みたかったのだ。
今夜マリンがいないことを承知の上で、そうした家にひとりでいる私のことを知った上で、クラウドはまっすぐ家に帰ってくることをしなかったのだ。
言いようもない不安は、はっきりとした形となってティファの前に姿を現した。
―― 寂しいと思っているのは自分だけなのかもしれない
そう思ったら、涙が出そうになった。


結局その夜は、ほとんど眠れない状態のまま朝を迎えた。
深いシワを刻むことのなかったシーツを軽く整え、明るんできた部屋に似合わない重いため息をひとつ吐いて、ティファは朝食の準備をするために部屋を出た。
あまり深く考えないようにしようと思った。
誰だってひとりで飲みたくなる夜もある。
現にうちに来る客の中にも、ひとり静かに飲んでいる人だっている。
だからクラウドもたまたま昨日がそんな夜だったのだと。
ひとりで飲みたくなる理由については……

完全に気分が晴れた訳じゃないけれど、少し遅く起きてきたクラウドと普通に朝の食事をすることができた。
会話があまり弾まなかったのは、いつもいるマリンがいないからだと思うことにした。
けれど、そうしたごまかしごまかしの理由付けが次第に息苦しく感じてきたのは、食事を終えて食器を洗っている時だった。
洗う皿はきれいになっていくのに、自分の中にあるクラウドに対しての不透明な部分はクリアにならない。
透明にならないどころか、薄汚れた感情で黒くなっていくばかりだ。
ティファは少し前の自分を思い出した。
真実と向き合うことから逃げた結果、彼の心をからっぽにしてしまったこと。
そんな彼を見て、逃げてばかりいた弱い自分を激しく後悔したこと。
あんな思いは二度としたくないと思っていたはずなのに、自分はまた同じことの繰り返しをしようとしている。

いつの間にかシンクの縁をきつく握りしめていた手。
その手で流れっぱなしになっていた水を止めて、ティファはクラウドの部屋へと向かった。
もう自分を誤魔化すことは止めようと。



部屋ではクラウドが配達の伝票に視線を落としながら、今日の仕事内容を確認していた。
「今から仕事?」
クラウドの背中を見つめながらティファが聞くと、いつもと変わりない短い返事が返ってきた。
それを聞いてティファは一呼吸置き、そして一番ききたかったことを訊ねた。
「今日も、遅くなる?」
普通に聞いたつもり。でも声が少し震えた。
そして息を詰めてクラウドからの返事を待つ。
そうするティファの前でクラウドの動きが僅かに止まり、けれどもすぐに手にしていた伝票をパラパラと捲って言った。
「……ああ、少し遅くなるかもしれない」
それを聞いたティファの胸が一瞬でざわついた。
心のどこかで、「今日は早く帰れる」という言葉を期待していたのだ。
もしそう言ってくれたのなら、「昨日は寄り道してたでしょ?」と軽く拗ねて、「今日は一緒に飲もう」と明るく言えたのかもしれない。だけど……
「今日もお酒を飲んでくるから?」
イヤミな言い方をしていた。すぐに後悔した。けれど、クラウドの手の動きが完全に止まり、自分へと向けた顔が色を失っていることにティファの頭の中は真っ白になった。
そうしたクラウドの態度は自分が抱いていた不安を肯定したように見えたのだ。
「どうして? うちで飲むのはイヤ? 私と一緒じゃダメ?」
堰を切ったように流れたティファの不安は棘を含んだ言葉で現れる。
こんなふうに責めるためにこの部屋に来たわけじゃないのに、出てくる言葉はどうしたってそんな言葉ばかりだ。
いつにない感情的なティファをクラウドは驚いたように目を見開いて見ている。
「ティファ、そうじゃない」
そう言って腕を掴むクラウドの言葉がティファの耳には入ってこない。
聞こえてはいるけれど、それを聞き入れようとすることを身体が拒んでいるのだ。
「クラウドはひとりで飲みたいから仕事だなんて嘘までついたの?」
ティファの言ったそれはクラウドの口を噤ませた。
そうして一瞬の迷いを見せたあと、クラウドは苦しげに口を開く。
「……ごめん。嘘をついてたことは謝る。だけど、ひとりで飲みたいとかそんなんじゃないんだ」
「じゃあどうして!?」
「それは……」
そこで言葉を詰まらせたことがティファの気に障った。
しゃべることをしないのに引き止めるように自分の腕を掴むクラウドの手にも。
その手を振り解こうとティファはさらに身をよじる。
けれども、そうはさせないとばかりにクラウドもティファの腕を握る手に力を込めた。
そうした自由が効かないことへのフラストレーションが口に出る言葉をますます感情的にさせていく。
―― っ、放して!」
「ティファ!」
「や、放してよ!」
「ティファ!」
「一緒にいたいと思ってるのも、寂しいと思ってるのも私だけ! クラウドは違うんでしょ!?」
「ティファ!!」
クラウドらしからぬ大きな声がティファの身体をビクッと震わせた。
僅かに怒気を含んだ声と怖いほどまっすぐに見つめてくるクラウドの瞳に、ティファの熱を吹く言葉は呑まされる。
けれど、代わりにどうしようもないほどの切ない気持ちが声になって現れた。
「クラウドは……私のこと、もう好きじゃない?」
途端、クラウドの表情がクッと歪んだ。
きつく眉根を寄せて、唇を強く噛みしめるそんなクラウドの表情にティファは驚く。
そしてその薄い唇から零れたやり場のない苛立ちこもった呻くような声にハッとしたのと同時にティファは強い力で抱きしめられ、視界が反転し、あっという間にベッドに押し倒された。
ベッドのスプリングを受けて跳ねる身体は覆いかぶさるクラウドによって素早く抑えつけられる。
反射的に動いた手も簡単に押さえられて、ティファは身動きが取れなくなった。
「クラ……」
彼の唇で言葉を遮られた。
それは昨日のような乱暴なキスではなかったけれど、今までしてきたようなやさしいキスでもない。
身体を芯から火照らせるような、そんな熱い口づけだった。
甘く痺れる感覚の口づけは何度も何度も繰り返され、時折耳に触れるクラウドの切なさ交えた熱い吐息がティファの意識を朦朧とさせる。
そうする口づけに抗う気力も次第に奪われて為されるがままになった時、服の裾からクラウドの手がゆっくりと入ってきた。
腰まわりを直に撫でられるその初めての感覚にティファの身体はびくっと震える。
クラウドの大きな手のひらは熱く、その手に触れられた自身の身体は熱を帯びていき、心臓は壊れたのかと思うほど早く脈打った。
そして徐々に上へと這うようにする手の指先が胸の膨らみに触れようとした時、これから起こる事態を意識してティファの身体がすくんだ。
「…っ…やっ」
腕を伸ばしてクラウドの胸を押しやり、距離を取る。
そうするティファをクラウドは静かに見つめ返していた。
そんなクラウドの表情はまるで、こんなふうに拒否されることは最初からわかっていたと言っているようで……
ティファの胸にチクリとした痛みが走り、そうした哀しげなクラウドと目を合わせていられなくなって目をそらす。
「こ、こんないきなり…」
言い訳のようにそう言うと、クラウドは僅かに首を振った。
「ティファにはいきなりでも俺は違う」
いつもよりも低いクラウドの声。
重く響くその声に再びクラウドを仰ぎ見ると、まっすぐ見つめてくる碧の瞳は暗い影を落としていた。
そしてクラウドは血を吐くような苦しげな顔で言葉を続ける。
「俺はずっとティファを抱きたいと思ってた」
ドクンと、ひときわ大きく鼓動が跳ねた。
目の前のクラウドは自分が今まで見たことないような男の顔をしている。
「もう、どうしようもないんだ。俺、ティファといるとこういうことしたくなる。でもティファは違うだろ?」
そう言ってクラウドは自嘲するような笑みをみせた。
その笑い顔にもならない表情がティファの胸をぎゅっと締めつけて声も詰まらせる。
そうした沈黙の中、ベッドが小さな音で軋み、続けてティファの身体からクラウドの重みがなくなった。
「少し距離を置きたかった。そうでもしないと俺、ティファの気持ち無視して昨日みたいなことするから」
クラウドは立ち上がり、扉へと向かう。
「俺、ティファにだけは嫌われたくないから」
そう言ったクラウドの背中を隠すようにして部屋の扉が静かに閉まった。





自分の思いを打ち明けたことに後悔はしていない。
気持ちを隠していたことでティファにいらない不安を抱かせていたのなら、もっと早くに伝えるべきだったとさえクラウドは思った。
ただ、恋愛に奥手な彼女にはストレートに言い過ぎたのではないだろうかと思うところはある。
男の事情―― そんなふうに思われるのがクラウドにとってはいちばん辛い。
ティファを抱きたいと思っているのは性欲を満たしたいからではない。
けれど、もしもティファにはそう聞こえていたら?
彼女はきっと俺を怖がるだろう。
そんな態度を見せられたらと思うと、クラウドは今日も仕事を終えてもまっすぐに帰宅することが出来なかった。
でもだからといってひとりで酒を飲む気分にも到底なれず、ただ目的もなくフェンリルを走らせていた。
またティファにいらない心配をさせている――
叱責したくなるそんな自分に、身体に刺すように吹く冷たい風はちょうどよかった。
しかしそうした冷たい風を受けていたのはクラウドだけではなかった。


静まり返った深夜にクラウドが帰宅すると、街灯だけが差し込む薄暗い自分の部屋に開け放した窓際に佇むティファがいた。
どれくらいそうしていたのかなんて、部屋の中の冷えた空気と窓を閉める際に少しだけ触れた彼女の冷たい肌で安易に察することができた。
「夜の風は身体に障るから」
窓を閉めたことで外界からの僅かな物音は絶たれ、部屋はより一層静まり返った。
「……ごめんなさい」
叱られた子どものように頭を垂れてティファは謝る。
いつもより小さく見えるその姿が痛々しくて、クラウドはやわらかく聞こえるように言い直した。
「怒ってるわけじゃない」
それでもまたティファは小さな声で謝った。
そうやってティファが謝るのは、今のこのことを言っているのではないとクラウドはもう分かっている。
「ティファ、もういいから」
これ以上ティファに謝られることは、彼女を責めるつもりなんて微塵もなかったクラウドには辛いだけだった。
だけどそんな自身の痛みよりも、ティファにいらない罪悪感を抱かせてしまったことのほうがクラウドの胸に痛く突き刺す。
そんなティファを抱きしめて慰めたかった。
しかし、腕は直前で止まる。
いま彼女に触れるのは、彼女にも自分自身にもよくない展開を広げてしまうようでクラウドは躊躇した。
そうしたクラウドの動きはティファの瞳を一層悲しげにする。
「……いや。こんなふうにクラウドに触れてもらえなくなるのはいや」
今にも泣きだしてしまいそうなその顔にクラウドの気持ちはグラグラと揺れる。
それでも抱きしめずに静かに首を振ることができたのは、もうこれ以上ティファを傷つけたくない―― その思いだけだ。
「無理だよ。今の俺にはできない。ティファ、もうわかるだろ?」
もう隠す必要のない気持ちを正直に伝えた。
うまく笑えているかわからないけど、彼女を不安な気持ちにだけはさせないように努めた。
けれど、ティファは尚も縋るような求めるような瞳でじっと見つめてくる。
そんな瞳は、たった今決意したことを簡単に覆してしまいそうになるほどクラウドの心を強く揺さぶった。
今度こそ無理して作る笑顔。それを最後にクラウドはティファに背を向けた。
「ティファ、もう自分の部屋に戻っ…」
トンと軽い衝撃がクラウドの背中にぶつかった。
と、同時に温かくやわらかい感触が背中を襲う。
そして自身のウエストにまわされた白い腕を視界に捉えたとき、クラウドの鼓動が大きく跳ねた。
ティファの考えていることがクラウドにはわからなかった。
言ったはずだ。こんなことをすれば、自分は何をするかわからないと。
ティファは意味を理解してないのか?
それとも俺が何もしないと信頼しきっているのか?
いろいろなことが一気にクラウドの頭の中を駆け巡る。
そうしている間も、まわされた腕に触れることはやはりクラウドには出来ない。
自分から触れてしまったら終わりだ。きっと何もかもめちゃくちゃにしてしまう。
されるがままのクラウドはその強い意志で、彼女に触れてしまいそうになる自身の手をぎゅっと拳に変えた。
「頼む……俺から離れてくれ」
絞り出したその声は情けないほどに震えた。
ややして、背中にティファが首を振って否んだのを感じた。
「いや」と言う小さな声も耳に触れる。
絶望感にも似た気持ちがクラウドを襲った。
耐え難いそれに歯を食いしばり、きつく目を瞑る。
そんなクラウドの耳にティファの声が続いた。
「……私もクラウドと一緒なの」
そう言ったティファの声が僅かにだが震えている。
それでもティファはゆっくりと慎重に言葉を紡いだ。
「クラウドに抱きしめられたりキスされたりすると、もっとして欲しいと思ってた。だから…」
「ティファ」
クラウドは最後まで聞けなかった。
聞いてしまったら、本当に自分を止められないと思った。
「今そんなこと聞いたら、俺……」
最後の忠告に一瞬の静寂が戻る。
その空気をティファの声がやさしく揺らした。
「……いいよ、私クラウドのこと好きだから」
―― っ」
抑えつけていた想いが一気に溢れ出す。
クラウドはまわされた腕を振りほどくようにして振り返ると、正面からティファを強く強く抱きしめた。





シーツにくるまっているからだけではない温もりが、寝ている間、自分の肌にずっとあった。
それは遠い昔の幼い頃、確かに感じたことのある安心感と似ていた。
その心地よい温もりを求めるように身を寄せれば、やさしい力でそっと包まれる感覚。そして額や頬、唇にやわらかな感触。
ティファの意識が緩やかに覚醒する。

「おはよ、ティファ」
ブラインドから差し込む細い朝の光の中、僅かに開いたティファの瞳がゆっくりとその声の主を探した。
鮮やかな金色の髪と、海の色とも空の色とも違う特別な碧の瞳を捉えると、虚ろだったティファの意識は急速にはっきりとしたものになった。
と同時に身体全体に熱がこもる。
鏡など見なくとも自分の顔が今どんな状態なのかがわかり、ティファはそれを見られないようにそっとシーツを手繰り寄せた。
「お、おはよ」
顔半分だけの朝のあいさつにクラウドがふっと笑う。
そしてその笑みを今度は心配げな表情に変えた。
「身体のほうは、その……大丈夫か?」
それはティファに昨夜の行為を鮮明に思い起こさせた。
あまりの恥ずかしさに、ティファは半分だけ出していた顔をすべてシーツの中に隠す。
しかしティファのそうした行為はクラウドには少しわかりづらかったようで……
「ティファ、やっぱり辛いのか?」
心配してくれるのはとても嬉しいけれど、でもそんなことはあまり聞かないで欲しいとティファは思った。
だけど、オロオロしている感じのクラウドの声を聞いたらそうも言えず、ティファはシーツの中で大きく首を振って「大丈夫」とだけ伝えた。
クラウドの昨日のそれはとてもやさしかった。だから、痛みを感じたのも最初のその時だけだ。
それでもいま身体が少し重たく感じるのは、今もまだ昨日の感覚が身体に残っているから―― とは、さすがにクラウドには言えない。
そんなことを考えながらシーツの中でひとり顔を赤くするティファの耳にクラウドの安堵する息が聞こえた。
「なあティファ、顔見せて」
「は、恥ずかしいから……」
「うん、でもこうやって顔隠されてるほうがもっと恥ずかしいんだけど?」
もっともなことを言われてしまい、ティファはそろりと顔を出した。
それを見てクラウドが小さく笑う。
「よく眠れた?」
「うん、クラウドは?」
「俺は……ずっと起きてた」
苦笑いまじりにそう言ったクラウドをティファは目を丸くして見つめた。
「寝てないの?」
「眠れなかった」
照れくさそうに笑って、クラウドはその目を少しだけいたずらっぽくした。
「でもそのおかげで、ティファの寝顔はずっと見てられたけど」
またティファの顔が真っ赤になった。
そんな反応はクラウドを喜ばせるだけだとティファは知らない。
恥ずかしさから、ティファはもう一度シーツを手繰り寄せる。
けれど、今度はそれを素早く制したクラウドがそんな彼女の額にキスをした。
「ずっとこんなふうにキスしてた」
それは寝ている間、ティファが微かに感じていた感触。
知らない間にそうしたキスを受けていたことはとても嬉しくて、ティファは寝顔を見られた恥ずかしさの色を頬に映しながらも、顔が綻ぶのを止められなかった。
それにつられて目を細めていたクラウドが不意にその瞳を切なげにする。
「なあティファ、俺はこの先も満たされることがないのかもしれない」
「えっ?」
突然そう言ったクラウドの意味をティファはすぐに解せなかった。
そうして懸命に考えあぐねた結果、ひとつの結論に達する。
「……私…だめだった?」
クラウドを満足させられなかったのかと思ってティファはそう言った。
「え?」
今度はクラウドが驚いた顔で聞き返す。
けれどもすぐに意味を解したのか、苦笑いながら首を振った。
「違う、そんな意味じゃない。ティファはその…すごく……」
とても言いづらそうにした後、クラウドは誰に聞かれるでもないその続きをティファの耳元でそっと囁いた。
それを聞くティファの顔はみるみると赤く染まる。
「や、やだ! そんな恥ずかしいこと言わないでよ」
「だってしょうがないだろ、本当にそう思っ…」
「ク、クラウド! も、もういいからっ」
慌てて言葉を遮った。
昨日の行為を思い返すだけでも顔から火が出る思いなのに、それに加えてクラウドから感想を述べられるのは羞恥に耐え難い。
ティファは顔を真っ赤にしながら話題を元に戻した。
「で、クラウドの満たされないってなに?」
「う…ん、なんていうか……」
クラウドは少し困った顔で頭をかいた。
そうしてからその顔をすうっと真顔に戻して、また切なげにティファを見つめる。
ティファはそんな瞳にドキドキしながら目を離せないでいると、クラウドのその逞しい胸の中に抱きしめられた。
「きっと俺はティファとこうしてても、まだまだ足りないと思うんだ。この先も、もっともっとと欲張ると思う。そういう意味での満たされることはないってこと」
クラウドの言葉ひとつひとつがティファを幸せな気持ちにさせた。
幸せすぎて涙が零れそうになる。
けれど、そう思うティファの気持ちとは裏腹にクラウドは抱く腕を少しだけ解いて不安げな顔を見せる。
「こんな俺のこと、ティファは嫌になったりするか?」
不安そうにする顔。
そんな思いを取り除いてあげるように、ティファは小さく笑んで首を振った。
「ならないよ。だって……」
そう言って、ティファはクラウドの身体にしっかりと腕をまわす。
―― 私も同じだから」


悶々としてるクラウドが書きたかっただけのお話。
うん、そんなクラウドはなんかきっとエロいと思う。

(2008.06.21)
(2018.09月:加筆修正)

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